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末の北辺防備に直面した緊張ぶりを窺わせている。なおこの達の但書に、先年より造酒は諸白と並酒に限るよう

沙汰しているが、ほかに銘酒と称して勝手に直段を引上げ、御定目直段の分は至って麁酒にし、銘酒のみを多く

売出し高利を貧っている向があると聞く。まことに不埓なことである。御用酒その外酒は諸白と並酒に限り、十

分心を用いて麁酒にしない様吟味し売出すこと。もし違反の者があれば、必ず無調法申しつけるとしている。酒

を嗜む側の口も奢り、次第に銘酒を志向する風のつよまってきたことを裏付け、藩が躍起となってその取締りに

当っている様子を伝えるものである。

また、万延元年一〇月、藩では「酒屋不足ニ付一統迷惑之趣相聞得候ニ付」として、当年の登せ米(送

江戸廻

送米

内から盛岡酒屋三軒には五〇〇石宛、在々一三軒には二〇〇石宛を、それぞれ造酒のため時相場で払下げる措置

『覚

をとった。この内鹿角では花輪通花輪町又右衛門、毛馬内通瀬田石村和助の二軒が指名されている(〓

)の

書』

て。

四、その他の醸造業

糀の製造

糀製造を醸造業の中に入れる可否は別として、安政期花輪一町だけで一七軒もの糀屋があった。

安政六年(一八五九)九月、花輪町糀屋仲間から次のような糀室存続の歎願書が提出された。

恐れ乍ら願上奉り候事

当御町糀室御礼銭一ケ年三拾五貫文宛ニ而滞り無く上納御證文頂戴、是迄商賣仕り有難き仕合ニ存じ奉り候。然ル処当

月八日年行司之外糀商賣之者、糀室残らず潰し申可き旨町役江御達之趣ニ而、八日夜より十一日迄残らず御潰しニ相成

当惑仕り候。糀室仲間年行司之儀は数人ニ而は御差支之趣ニ而、前々より仲間之内新古ニ抱らず頭立者頼合仕り願上候