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紙があった(
山本家
文書
○元文六年(一七四一)二月の伊勢屋山本九一郎の勘定目録にも味噌がある。また宝暦一一
年(一七六二)能登屋清左衛門、若松屋市右衛門各四〇〇貫匁、伊勢屋四郎兵衛一四〇貫匁、三右衛門二五〇貫
匁合計一、一九〇貫匁の預かり味噌の指令書、そして天明二年(一七八二)から寛政一一年(一七九九)に至る御
前掲
囲味噌に関する雑記録(
、天保四年(一八三三)谷内村阿部藤助の『稗賣払覚帳』の中にある「みそ払」の
書等
四点が残っている。
これ等は、醸造業として営業していたという記録はないが、山本家勘定目録には在庫量三、五八三貫七〇〇匁、
一貫文に付味噌二〇貫目替の記事があり、自家用醸造としては量が大き過ぎるし、凶作年には多量の払出しが行
われていることから、酒同様営利を目的に醸造していたものと思われる。若松屋の『萬永久扣帳』
天山堂
文書
)によ
れば、宝暦一二年の仕込味噌は三年目の明和元年から次の様に納入されている。
覚
一、味噌四百貫目預かり書付上ル内
一、廿五貫匁申三月二日渡
右御代官野村喜太夫之節御書付ニ而仰付けられ、白根山御用、御宿利右衛門方へ
一、同廿五貫匁申八月十二日同
右ハ御山宿利右衛門より書付之
一、同拾五貫匁申十月十一日同
右卅貫匁仰付けられノ内のとやふり分ニ上ル