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に次のように記されている。

六月廿六日入拾弐貫紫木綿拾反分壱貫弐百文ツヽ八月五日入無地紫木綿十九〓

同日入百廿文同絞り賃弐反分六〇文ツヽ六日入茜木綿三反内一、絞り壱

七月一〇日入弐貫四百文紫木綿弐反分同日入紫木綿七反内一、絞り壱〓

同日入六拾文同壱反絞り賃一三日入同廿反無地

一二日入拾八貫紫木綿十五反九月朔日入同廿戸

同日入四百廿文同七反絞り賃一九日入無地三十五反

同日入拾弐貫紫木綿拾反代紫木綿〆百壱反代百廿貫弐百文

同日入三百文同五反絞り賃茜木綿三貫九百文

(計三七反)絞り賃代三百六十文

前年の文政八年八月、野辺地の野村治三郎店から町井佐助に宛てた『毛馬内紫佐助様仕切帳』には、紫木綿

○〇反分一二二貫とある。町井佐助一店で取扱ったこの反数から推定しても、鹿角全体での生産量はかなりのも

のであったことが窺われる。これについては、次の項に挙げる第三者の建議、評価も重要な手がかりになるもの

と思われる。

近世末における鹿角の紫染、茜染盛況について後藤捷一『南部紫根ゆかりの色』

に次のような記載(要旨)がある。

鹿角の染色加工は今や立派な国産事業に到達しているが、紫根のほかに茜染も行なわれて居り、木綿原料の操綿代金が