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○文化二年八月二八日

、細布壱反毛馬内桜庭兵庫様江毛馬内御役人中様以盛岡御や敷江御啓上物ニ手前ニ而差上申候。

右の文書にみる茂平は大湯肝入であり、大湯旦那様とは大湯の城主北氏(後の大湯南部氏)である。

将軍

これらの文書から、肝入・毛馬内御役屋・大湯旦那様を経由した注文が多いこと、天下様

)への上納品

家

に選ばれていたこと、幕府巡見使鹿角通行の際の献上物となるのが恒例であったこと、領主の進物用にも用いら

れていたことなど、細布は特に貴重な扱いを受けていたものと思われる。この文書で見る範囲では細布一反が一

貫文であった。

狭布の細布とは、伝承によると、狭布は毛布で鳥の羽毛を混ぜて織った布であったとされ、後年単なる麻織と

なってもそのまま希婦の細布と呼ばれたもので、巾六寸程、丈は二丈六尺位あったといわれる。衣類のためでは

なく衣冠束帯用に烏帽子などを作る布として織られたとする伝承もある。

また『萬帳』』『大福帳』からみる限り

といった工合で、その年間生産量はいたって少ないものであった。文書に記載されたものが注文され生産された

もののすべてだとすれば、地域への経済的な貢献はさほど大きくなかったことになる。

旅人の見た

鹿角の産物

安永年間(九年間)六反天明年間(八年間)二反寛政年間(一二年間)一三

享和年間(三年間)一五反文化年間(一四年間)八八反

石の細布について、寛政二年(一七九〇)九月古川村の黒沢兵之丞家を訪れた尊王論者高山彦

刀郎は、その紀行に次のように記している。「(兵之丞は)是レ錦木塚の古人といへるもの也。