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御勘定
味では鹿角は硝石製造の重点地域であったといえる。両鹿角で製された「御軍用専一之品
)硝石は盛岡
所演説
南郊の簗川吹所へ附上げられていた。
毛馬内の養鯉業も、幕末における国産振興の課題としてとり上げられたものの一つであった。松浦武四郎は
『鹿角日誌』』(嘉永二年)のなかで、毛馬内の見聞として
扨扶持家の邸内を見るニ皆大なる池を二ツ三ツ位ヅヽ掘て、是ニ鯉を養うこと百頭、弐百頭とも育ふよし。此池の大な
る二は七間、八間位にして其中程の深さ壱丈餘にも掘るよし。左無時は寒中凍氷の為ニ皆斃揚すると。其一尺位の鯉の
直段四十文位。壱尺五寸にもなりて百弐十文、弐百文にも及ぶよし。安き時は弐尺位のもの弐百文ニ満たずと聞り。扶
持家は多く是を経済の為ニす。
と記している。古くから毛馬内では御給人・桜庭家中の間に養鯉が盛んで、現金収入の一端を担っていた。なお
右の文に続いて「又邸広き故に桑を作り蚕養をせるも、又袖を織出すもあり」と書留められていることに注意を
ひかれる。養鯉の風は大湯にもみられ、万延元年八月藩主利剛が大湯滞在中、大円寺の帰りに「谷地藤次郎之宅
御立寄、池に飼置し鯉へ投網御打たせ御覧遊され御帰り也」
『両鹿角品
従日記」
)と記録されている。このような背景の
下に「毛馬内通御国産鯉作方御用懸」が生まれ、勝又定八は毎年鯉三、〇〇〇本宛を御城へ差上げたいと願い出
た。また御用懸太田新助から年々六月に稚鯉が上納され、それは福岡通畑村の関佐七、同荒屋村の孫右衛門、円
蔵が飼立てるよう申付けられていたことも『覚書』記事によって明らかである