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この慶長期における鹿角の産金について、同じく藩士星川正甫(一八〇五-一八八〇)の『食貨志』には白根金

山発見のあと「(慶長)四年同郡尾去沢村五十枚金山出る、此山金を産する事又夥し。一日五十両の運上にて

是を掘る、依て五十枚金山と云う。又継いで長牛村槇山金山、今の真金山出る」「是に次いで尾去沢に西道金山

と二う出でて此年又大盛也。然れとも白根の金位の宜しき且つ多きにはしかずと云う」として、白根につづいて

五十枚、槇山、西道の各金山の次々と開かれたことを伝えている。この書にも、白根金山の隆盛ぶりが前掲『祐

清私記』とほぼ同じ内容で描かれているが、その中の「公(利直)の世の至ってから金貨の多く出ければ、公私

とも封内富饒にして富既に天下に甲たり」という表現は、別の項での「鹿角郡の金山連年出す事を減ぜず(略

故に物価初めて貴しといえども、公室累年の富に依て封内静諡也」という文言とともに、鹿角の産金がいかに創

業期の盛岡藩政にとって有益であったかを云い当てている。

二、鹿角の産金伝説

白根発見伝説

鹿角の金山でもっとも早く発見されたといわれる白根金山について、前掲の『祐清私記』に

は、一鹿角金山はしまり之事」として次の伝説が書きとめられている。

秋田境目検分のため鹿角郡へ来た北十左衛門が、白根の辺りに滞在していた時、七十余りの老婆が幼い孫を

一人連れてたずねてきた。その訴えをきくと、孫の両親は数年前になくなったが、先祖伝来の田地はこの子

りの伯父が約束を守らずに横領している。明日をも知れぬ私の命のあるうちに孫たちへ取り返してやりたい

との一心からお願いに上ったのだという。十左衛門が老婆の持ってきた書類の一包みをほどいてみると、先