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一、白根金山

〓白根金山の繁栄

白根の始まり

鹿角の金山は、慶長の初めに次々と発見された。それは戦国のめまぐるしい変転のなかから、

新しい秩序が芽ばえ、近世の曙光がほの見えてきた時代である。慶長三年(一五九八)豊臣

秀吉は後事を徳川家康に託して薨じ、翌四年南部の太守信直が二戸福岡城において世を去った。南部信直が、鹿

角を含めた所領安堵の朱印を秀吉から交付され、その奥州再仕置軍の武威によって、叛服常なかった領内地士の

勢力を一掃したのも、僅か十年前後を遡るに過ぎなかった。西境を接する秋田において、常陸の佐竹義宣が転封

となって湊城に入り、秋田実季の常陸宍戸五万石転出と入替ったのは、慶長七年のことであった。

鹿角の金山発見について、『公国史』「食貨志」に「慶長三年春北十左衛門鹿角郡境目見分として同郡石野村白

根山に至て初めて金山を得る。其金色厚く清し、産する事夥し」と述べている。『公国史』は天保一〇年(一八

二九)毛馬内通代官を勤めている藩士星川正甫(明治一三年没)の著わしたもので、その後の『南部史要"

明治四

四年

)はじめ諸書に大きな影響を与えている。

この白根金山慶長三年発見は、白根の見立人であり、金山山先であった青山庄左衛門家の由緒書にも同様伝え