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とあり、領内の産金を初めて駿府へ献上しそれをそのまま拝領したことへの祝意を述べている。この書状でも、
御金山とあるだけで白根の名はでていない。
慶長一三年、鹿角側が鹿角沼山の嶺を越え、その西方で金を掘ったという秋田側の訴訟に始まる南部秋田領境
争論は、その後延宝五年(一六七七)の幕府裁決に至るまで延々七〇年間も続いた。慶安四年(一六五一)秋田
方目安状に「鹿角沼山ハ今ホとハ西道と申候、彼の金山ハ慶長十二年之前後ニ出来仕候」「白根金山ハ慶長十年
出来仕候、赤沢金山ハ慶長十一年より同十九年迄秋田より金をホリ申候」などとみえる。赤沢金山は現大館市地
内、白根と背中合わせの位置にあった。
市内石鳥谷渡部家文書の内「白根金山井処々銅山鉛山御尋候者可申上事」(天和元年)に次の文のあることが
注目される。
一、白根御金山慶長九年ニ金掘始メ当年迄ニ七拾八年掘始之中当ハ金子数多罷出候由申候。同西道金山慶長拾壱年ニ掘始、
其翌年西道より運上金百枚白根金山より七拾枚右両口〆百七拾枚、古信濃守代ニ私領分ケ様之金山罷出候と、権現様汀
左上ケ被申候所ニ、其方領分より出候金子ニ候間金山共被下置、内白根金七拾枚、御公儀江御取上代金被下置。(下略)
(
これは、慶長九年から七八年めに当る延宝九年(一六八一)のものである。将軍は五代綱吉に替り、この年
九・二九天
和と改元
)八月南部領へ幕府巡見使が下向しているから、その折の下問を予想した答弁準備書であろう。白根・
西道の開坑年代とともに、信濃守利直が慶長一二年に運上金として西道一〇〇枚白根七〇枚の計一七〇枚を権現
様こと駿府の家康へ差上げたとして諸書と異なる説を述べている。
このように、白根金山の開坑を慶長三年に限ることは無理のようである。『祐清私記』のいう「慶長七年の春