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候。如此取申候へ共、南部金次ニ吹直シ申候ヘハ、三拾七八匁御座候。就中此砂金なとハ、只吹目ニ直シ申候ても、三

十七八匁ニ罷成候と可申由、被仰候。

あるのは、政景が翌日駿府へ出発するに当って金一〇二枚をうけ取った。うち一〇〇枚は「南部領白根金山玉

秋田

金(吹金)の品位で湊(

ロ)目の封付という意味であり、一枚は四〇匁八であって、一種の田舎目である。別

湊

に加えた二枚の内、一枚は杉沢吹目金で山目、一枚は桧内の砂金で山目、ともに四四匁で南部金なみに吹けば三

七、八匁となる」(

小葉田淳著『日本

鉱山史の研究」

)という意味である。当時京目として一枚=四四匁の秤量法も行われたが、東

北地方では一般に一枚即ち一〇両=四〇匁の田舎目が広く用いられていた(

小葉田淳著『日

本の鉱山

)。即ち白根金山吹金が、

秋田土崎湊の吹屋か天秤屋によって、田舎目に近い一枚四〇匁八に封包されて幕府へ上納されていた

〓お、『梅津政景日記』慶長一九年七月一四日の条には、阿仁金山の山師町割に際し、金名子屋敷の配分をめ

ぐり「白根・さいたう方々より為参山師共、或ハかなこ五十人・三十人宛持ちたる者共、よき所を一所ニ申請度

と申候」と、良い場所を要求し紛糾したことを伝えている。

見文六年(一六六六)青山庄左衛門が白根の陰平・中山平水抜普請に着手すべく、蔵米五〇駄の拝借を願出た。

これを許した藩は「壱駄に付白根金壱匁四分之直ニ白根御賣米之積ニ算用」し、暮に返済すべきことを命じてい

る。これらの史料からも、当時白根金が一定の品位をもって通用していたことは明らかである。

白根金は寛永一八年(一六四一)から広島吉兵衛が吹き、その死去後延宝二年(一六七四)以降尾張屋治五兵

衛が跡をうけ吹屋をつとめている。『雑書』に