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その大要は、七十枚間分の鉱脈を切出したとの注進をうけ満足に思う。日前のことは作兵衛と談合して請ける

よう、よこはんがあるかも知れぬから十分気を付けて普請するがよい、ということであろう。間分は間歩ともいっ

て坑道のこと、よこはんは横番で枝分れ坑道のことである。日前は稼行期間をいい、山師はこの日前を運上金い

くらと決めて請けていた。よこはんにも気躰候ハゝの気躰は、金躰の意味とおもわれる。また普請とは坑道掘准

のことで、鉱石の採掘そのものではない。

「岩手

この書状の発信者北重(十)左衛門は、慶長年間における鹿角の金山奉行で、同一九年

)に出奔して大

県史』

坂城に入った。大坂入城には大量の鹿角産金を携えていたといわれ、後に盛岡城外で処刑されている。したがっ

てこの書状は、出奔以前のものである。宛名の庄左衛門御両人とあるのは、青山家初代庄左衛門と次子与(勝)

左衛門を指したものといわれている。

七十枚間歩の名の起こりは、最初に稼行した時の運上金が七〇枚であったことによる。判金一枚は、東北地方

において量目四〇匁が慣用されていたとみられるから、七〇枚で二貫八〇〇匁である。かなりの盛況を見込まれ

た間歩であったことがわかる。白根の初期はこのように多額の運上金で請ける間歩も多かった。

金山奉行北重左衛門と山師青山庄左衛門の間には特別親密な結び付きがあったと想像される。鶯宿村(

岩手県

雫石町

住居青山庄左衛門家系一

「青山家系

事蹟』所収

)によると、初代庄左衛門昌長の長子市之助は慶長一八年南部(北)重左衛〓

に随って大坂城に入り、豊臣秀頼方となって働いている。その落城の後には佐竹家に仕え、その子孫は桧山に仕

したという。白根の二代勝左衛門は、市之助の弟、幼名与左衛門である。