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囘藩の当時の金山経営は直山の仕法のうち、運上山の形態をとっていたことと、その日前の途中でも運上金増額
を願いでることにより稼行主の交替が行われていたことがわかる。なお〓の弐枚五両間歩の名は、最初に稼行を
許された時の運上高からおこっている。この二通の証文は、いずれも日付の下に藩主利直の大きな判形が捺され
〓の証文包紙には「御極印ヲ記タル御証文」と記してあったことが伝えられている。この証文形式は寛永前半ま
で続き、その後半から藩老連署の形に替ってくる。請人は、ともに青山氏の二代庄左衛門昌長である。その系譜
によれば、昌長は幼名与左衛門、勝左衛門、庄兵衛を称し、正保三年(一六四六)四〇歳にて家督を継ぎ庄左衛
門と改め、延宝五年(一六七七)七〇歳で没した。別書には元和四年跡式相続とあるが、同年にはまだ弱冠一一
歳、父の後見のもとに名義人としてその稼行を請けたものであろう。なお以下の例示証文のうち渡部ヒ
蔵にかかわるものは初めてここに公開されるものである。
〓白根御金山之内根田沢、七月朔日より九月十二日ま
て、日まへ七十日四枚ニ渡候。但御運上増ニ望者候
ハゝ早々可渡者也。
寛永五年六月廿六日利直判
近江茂兵衛
越中与茂七
(渡部氏所蔵文書)