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なお『青山家白根史蹟』には、寛永一九年の道中通行手形が一点収められている。
白根青山庄左衛門金掘道具需ノはし、つち、たかね、しゃくし共二五駄、三戸ニて調参候。無違義通可申候也。
午ノ三月十九日三左衛門判(毛馬内
五左衛門判(楢山)
隼人正判(七戸)
三戸より白根道中鉄改所
鶴ノ散はやわらかな岩石を掘る鉄製の道具で木の柄がつき、つちは山鎚、穿鎚ともいい、たがねの頭を叩く鉄
鎚である。たがねは手鉄で岩盤や鉱石をうがち、しゃくしは床屋道具の一つで、鉱石の粉をかきまぜたりすくい
揚げたりするものであったろう。この手形の年代は午とあるだけだが、七戸隼人正は正保四年没なので、その前
の午年は寛永一九年に当たる。
当時鉄製品は、もっぱら三戸や盛岡方面から調達したらしく、庄左衛門が盛岡から帰るに際して次の通行証文
鶯宿青山
氏文書
)を携えている。
青山庄左衛門白根へ帰候ニ付、なた四丁、釘弐千、ほうてう三枚買参候。無異義通可申候也。
石井伊賀守判
丑ノ七月十五日石井伊賀守判
盛岡より白根迄道中継改
この丑の年を『岩手県史』は(寛永一四カ)としているが、石井伊賀守は慶安三年に没しているので慶安二年
のことであるかも知れない。