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見永一二年以降の白根証文はそれぞれ藩老連署という形式をとっているが、藩老の一人七戸隼人正は七戸二、
二〇〇石を知行する南部氏の分流である。隼人正直時は利直・重直二代に仕えて家老を勤め、正保四年(一六四
七)に没した。後嗣の男子がなかったので、重直の弟である花輪彦左衛門が七戸家を相続し、七戸隼人正重政と
改めた。この重政は寛文四年(一六六四)重直が逝去したのち幕府の命によって南部本家を継ぎ、大膳大夫重信
と称することになる。
庄左衛門、寵を受ける
青山先祖永代記目録
『青山家白根
史蹟』所収
に「七戸はやと様と申ハ三戸ニ御座成られ候殿
裸ニ御座候所、青山庄左衛門白根金山山師之節より段々三戸え罷越、はやと様え罷
上り御目見仕候、右ハ金山入用ノもの鉄釵、〓、手金、しやくし等迄三戸より調取よせ候節、関御番所御判いた
たき相通シ申候、殊ニ鹿角通り御蔵米五拾駄百駄百五拾駄何程モ拝借被仰付、白根吹金ヲ以御代納上納仕候
「依テ三戸はやと様え御心安罷成、御のう御うたい御すきニテ御なくさミ被遊候、其節御相手申上候」、大殿様と
なられてから大病を煩い御典薬衆の調合でさまざま薬用されたがご快気にならない。桜庭兵左衛門から「兼テ御
心安ク被成下候白根青山庄左衛門、やぶいノ心御座候由承り罷有候、若および被遊度思召も御座候ハゝ早々取よ
せ申す可き」旨を申し上げた。そこで庄左衛門は早飛脚で呼ばれ、夜通しかけて盛岡に着くや大殿様はお喜び〓
なり早速その加減をみるよう命じられた。かれこれ廿日程で元の通りご快気になったので、ご褒美として毛馬内
代官所の内万屋村に一〇〇石下さることをお命じになった。庄左衛門は有難き仕合せなれども兼て御切米五駄〓
戴しているのでその外に何の望みもないことを申し上げお断りした。しかし違背に及んではならないという重ね
ての仰せなので、それならば「盛岡往来毎年宗門帳持参仕候間のりくら道具相立候様ニ被成下度」とお願いした。