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よって慶安二年(一六四九)一二月二三日切支丹御証文ニ御伝馬御切手を添えて下し置かれたのである、と書か
れている。
なお石田家系図の儀左衛門勝永の譜にも「寛文七年三二歳之時、大膳太夫重信七戸隼人様ト申シ奉リシ御時、
儀左衛門ト名下置かれ、盛岡江罷り出候砌御目見得仕り、金山銅山処々取立御証文数十通頂戴」云々とあり、同
様に七戸隼人正との親密な関係を窺わせている。
運上山
則掲の証文によって知られるように、近世初期盛岡藩の金山経営は、藩が直接的に奉行等を署
いて支配する直山法をとっていた。〓~〓の証文に藩主の大きな判形が据えられていることが、
その端的な表現であった。直山には、運上金を公納する形の運上山と、掘荷を公納分と山主分とに一定の歩合で
分ける荷分(掘分)山があったが、盛岡藩の初めには運上山が多かった。また直山法に対して、山師が運上請負
し一山を経営する請山法もあったが、盛岡藩では農民の小規模な砂金採取に適用された定判役のみが、わずかに
その例に当たるといわれる。
運上山は普通の場合、普請・切取・採鉱稼行の順序をたどる。普請は、金山を見立てた山師の最初にとりかか
る工事で、鉉(鉱脈)に当たるまで続けられる坑道掘り即ち探・採鉱のための坑道掘進である。ほかに水抜(疏
水坑)や煙貫の掘進も普請とよんだ。切取は、鉉に切り当たった後に運上なしに採鉱を許されることである。ま
ず鉱体からとった試料で見込みがたつと、鉱石一荷が掘取られ問吹(ためし吹き)にかけられる。一荷は叭一個
の鉱石をさし普通五、六貫目の重量があった。問吹の結果は金山奉行から藩老に報告され、その指示によって切
〓日前が与えられた。前掲〓の切取証文では、青山庄左衛門が銅平間歩を四、五年普請した結果寛永一九年閏九