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のせり人がでてきたとしても、七〇目以下に許してはならない、七〇目であれば別の山師へ渡してよろしいとい

ことである。白根山師左五兵衛へ遣わす手形を御奉行両名へ渡したとあるのは、この運上増とは別件のもので

あろう。

厦安期の請人として、白根の仁左衛門、市助、越後の太郎右衛門、津軽の孫助が見え、寛文には石田儀左衛門

や白根の久二郎の名がでてくる。これらの山師について関連の史料に乏しいのでよくわからないが、仁左衛門は

稼行した間歩数も多く有力な山師の一人であったらしい。同じく越後と称する人物として太郎右衛門とどういう

関係にあったか、『雑書』寛永二一年一一月一八日条に、当月一八日の子ノ刻に白根金山越後新蔵という者の蔵

を破った盗人を半弓にて討ちさらに追いかけ鑓をつけて捕え置いたという記事がある。津軽の孫助は、同じく

『雑書』慶安元年二月一五日条に検断左五兵衛と共に根田影平五枚九両山の間歩の普請に取付き、細鉉に当たっ

て掘分を仰付けられたとみえている。石田儀左衛門は、儀兵衛勝正の子、のち立石銅山、駒木銅山を稼行し御境

古人をも勤めている。

掘分山

青山家白根史蹟』に収められている正保四年一一月一〇日付青山庄左衛門宛藩老連署状に、

人要次のことが記されている。白根の内地蔵沢扇平に、先年掘捨になっている多くの水抜間歩

を見つけ、大水抜工事を望んで正保二年八月二四日より普請に入った。その水間歩の内加賀七兵衛間歩一口は当

牛一〇月二二日に水抜が済み、切取日前を下さるべきところ掘分けということにして、掘出した鏈の四分一は大

上に下され、残りを掘分けに仰付けられた。大工は掘大工、今の坑内夫に当たる。その上で、「若シ以来過分ノ金

○出候ハ金躰ニ応ジ三分一カ四分一分ケ下さる可きノ旨仰出だされ候。弥々残ル水抜に精を入れ申す可く候」と