テキストを表示

選鉱と一部製錬を経営し、独立した床屋(製錬者)に賃吹させたことが多いという(

)。与茂助につ

小葉田・『日本

鉱山史の研究』

いては、万治二年八月八日青山勝左衛門が金山奉行藤田多左衛門に宛てた「乍恐根田御掘分山之大水抜被仰付候

様子就御尋ニ書上ケ申事」(

『青山家白

根史蹟』

〓)の中で、庄左衛門の水抜普請に与茂助の取明けた古間歩が抵触していると

して訴えている。与茂助は山師であり、買石を兼ねていたものと思われる。

その売上代銀の総計が一貫一四四匁で、この内四分の一に当たる二八六匁は大工掘子に与えられた。その残り

を折半し、四二九匁ずつを殿様への公納分と勝左衛門の取分に分けている。

また、紫波町堀切氏文書には正保四年一二月二〇日付藩老から金山奉行掘切兵庫助らに宛てた、四挺立間歩

(加賀七兵衛間歩)にかかる掘分け代銀六六三匁七分五厘の請取状があったという。この請取状には四分の一、四

四二匁五分が大工の分、六六三匁七分五厘が庄左衛門掘分けの分と付記されているので、掘荷売代銀の計は一貫

七七〇匁ということになる(

小葉田氏論文「東北地方

金山経営の一形態」から

なお掘分山について一、二の例をあげてみる。

)。

白根御金山之内本平普請間府一口筋付、鏈鍵壱荷壱分金躰有之ニ付、白根御金山並之掘分望候ニ付而則被仰付候。先達御

定之通、掘出し候鏈四ケ一ハ大工掘子分、残処半分ハ山主分、同半分ハ上り鏈ニ候也

石井伊賀

毛馬内九左衛門

慶安元年霜月廿日石井伊賀

太郎右衛門

(渡部氏所蔵文書)