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吹金弐拾目九分三厘ハ、白根金山禅門間府慶安四年御掘分之銀子之内、大工掘子分ニ四ケ一引、相残五百四拾四匁弐分

七りん五毛之内半分被下、弐百七拾弐匁三りん代拾三両、朔日ニ両替仕り

慶安五年六月八日

弥六郎(八戸)

慶安五年六月八日弥六郎(八戸

九左衛門(毛馬内)

青山庄左衛門

(雫石・青山家文書)

〓山先青山庄左衛門と大水抜普請

白根金山の最盛期はおそらく慶長・元和から寛永初期へかけての頃と推測される。この期間を通して夥しい数

の間歩や敷が開かれ、富鉱帯は殆ど掘り進められていた。そして寛永後半からはさしも繁昌をうたわれた白根の

産金も、著しく減少し始めたものと思われる。その原因は、鉱体の退化もさることながら、採掘の進むに従って

起こる各間歩の湧水・浸水にあった。手の施しようもない浸水によって数多くの間歩を、次々と放棄しなければ

ならなかった。このような事態に直面し、金山の頽勢を挽回するためには、水没した間歩の排水に努めるほかは

なく、寛永後期より大規模な疏水坑の開鑿が繰返されることになる。

〓根田四枚平上中下惣平一一口の大水抜

寛永一八年五月、青山庄左衛門は根田沢四枚山惣水抜を藩に願出て普請に入った。その模様を次の藩老連署状

によって知ることができる。