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う。
金を指上げたので四枚山といったのである、と記している。金四枚は、一六〇匁である。
明暦元年(一六五五)一一月に至って、この四枚山水抜一一口の内一部の排水が成功し、切取日前二〇日が与
えられた。その跡山を二三日間掘分けとして稼行ののち、再び同年一二月二四日より同三年四月二二日迄まで水
抜普請したところ金筋に当たった。鏈一荷に金二分二厘あったので、再度掘分けになった
明暦三年五月四
日藩老連署状
)とい
また万治二年(一六五九)一〇月一二日の金山奉行藤田太左衛門宛青山勝左衛門の願書「乍恐御訴訟申上候御
事」(
「青山家白
根史蹟』
によると、根田四枚山上中下惣平三拾壱枚間歩・五両敷など親勝左衛門の時分より数々の水貫に
取りかかってきたが、いずれも水間歩となって手廻り悪く、影平・中山両平の古間歩などの水きわ下についても
工事が進捗していない。とくにこの一両年は散々悪い状態のなかで大水貫大普請をつづけているので、大工掘子
の日用入方の御米一〇〇駄を拝借申し度い。一敷は水抜をつけ掘分となっているので、この度の御米一〇〇駄も
急度返済できると思う、と願いでている。御米拝借とは、藩庫の毛馬内御蔵米を借りうけるということである。
これらの大水抜普請がどの程度成功したかは明らかでないが、当時の技術ではたいへんな難工事であったこと
は想像に難くない。
〓地蔵沢扇平惣水抜普請
。
「前掲
司山庄左衛門は、正保二年(一六四五)六月二四日地蔵沢扇平惣水抜普請を願いでた(
書』
ての願書によると、地蔵沢扇平の先年高運上に稼行された古間歩など二〇口程が、浸水で久しい間捨りにな
こいる。これをもっとも低位にある米代川縁から普請にとりつけば必ず抜くことができる。ただ莫大の普請入方