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門直次の歿年が承應元年(一六五二)であるから、おそらく正保から慶安へかけてのものであろう。

同じく根田沢の陰平と中山平の大水抜普請が、明暦二年八月青山庄左衛門によって着工された。庄左衛門の書

状には、その前後の経過が次のように報告されている。

根田四枚山上中下惣平一一口はいうまでもなく、根田陰平、同中山平の両平にも、前々から掘捨りになってい

る古間歩が数多くある。根田陰平の内の七両上下敷および一七口の古間歩の下を、先年高橋七郎左衛門が水抜普

請にとりかかっていたが、完成しないうちに亡くなった。庄左衛門はかねて進めていた根田四枚山惣水抜の工事

とともに、七郎左衛門の跡を引継ぐことも許されて今日に及んできた。然るに万治二年(一六五九)七月初めか

ら、七両上下敷の下、七郎左衛門水抜との間にある古間歩を山師与茂助が取明けている。この古敷は七郎左衛門

の自由とした一七口の内であり、その上には庄左衛門が望みをかけて水抜した古間歩も多い。与茂助が殊更に新

切山として証文を請け、今の古間歩からさらに数々の古間歩を打ち貫き自由にするようであれば、お上から申

付けられた庄左衛門の首尾は立たず、迷惑である。お定めの通りに争いが起こらぬようお取り計いいただきたい

刀治二年八月八日青山庄左衛

門書状・『青山家白根史蹟』

)として、金山奉行藤田多左衛門に訴えている。

圧左衛門が、七郎左衛門の跡を継いで陰平の七両上下敷一七口の水抜にかかったのは、これに四枚山上中下惣

平一一口の大水抜を連結し、根田沢にある各古間歩の全面的な大疏水坑実現を企図したからであろうと推測され

(

る。また山師与茂助の普請に異議を申し立てたのは、当時の慣行として、水の溜った古間歩の排水に成功した場

潴水

合には、その排水前の水きわ(

)より下は水抜普請人の自由な稼行に任せられることになっていた。与茂助

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