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この書上によると、当時普請に働いた人達は、通例年間三四三日の稼働日数、休業日は正月が一〇日まで、他

の月は五節句ごと、即ち正月七日(人日・七草)、三月三日(上巳)、五月五日(端午)、七月七日(七夕)、九月九

口(重陽)の各式日、それに盂蘭盆の三日間であった。明暦三年には四月の半ばまで、留木が不足なため休業

している。留木は、坑内の崩落を防ぐいわゆる坑木で、『黒沢氏至宝要録』

大正版『秋田

県史』所収

)には「山和かにて鋪つ

ぶるる故、材木にて山を押うるを留木という。其内に柱・梁・矢木などと云う、梁をのの木と云うなり」とある。

白根金山の留木は、おもに小坂古遠部山から下げ渡されていた。なお、この普請用留木にかかわる資料として渡

部幸三郎氏所蔵文書のなかに、次の一点がある。

一、銭拾貫文

右ハ古川村ニ之れ有り候留木代の内ニて、慥ニ預かり申し候。銭参り次第何時成り共相渡し申す可く候。念の為此の如

くニ候。已上

辰正月八日

白根山台所判

辰正月八日白根山台所

古川村

古川村

仁右衛門殿

右の辰年は、同文書が慶安から明暦へかけてのものの多いことからみて、おそらく慶安五年である。古川村〓

右衛門がいかなる人物であるかはわからない。ここにみえる白根山台所が後年鉱山全般の経営事務をとる勘場、

若しくは役方・働人の賄いや庶務を担当した台所と同じであるとすれば、その頃から台所という役所があったこ

とになる。