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成就しないまま相果ててしまった。子忠兵衛(三代庄左衛門昌久)がその跡の普請を申しでているけれども、何

分の大事業であるから自力のみでは成し難く、其方共に相談の上で運びたいと望んでいるのでその意を受けてほ

しい、と白根銅仕清兵衛、左平次、久左衛門の三名に協力方を指示している。

〓本平・六枚間歩

"雑書』承應三年(一六五四)一〇月二五日の条に、白根御金山の内六枚間歩の大水抜を、庄左衛門、左次兵

衛が三、七〇〇日余り普請し、当六月に水抜をつけ一荷当たり金二分五厘の金躰に切付け、切取日前六〇日を与

えられた。その跡山を御運上金二〇目で稼ぐことを白根検断左五兵衛が願いでたので、許可の手形を与えたとの

記事がある。庄左衛門、左次兵衛の普請日数三、七〇〇日ということから逆算すれば、一年の稼働日数三四〇日

余として一一カ年近くを要したことになり、寛永一九年頃の着工とみられる。

近年、渡部幸三郎氏の収集した白根関係文書のなかに、次の二通の藩家老連署状がある。

白根御金山之内七枚沢より水抜仕儀、儀兵衛切取跡山、仁左衛門御運上金四拾五匁ニ申請、掘捨間歩承応二年二月廿八

日より明暦三年二月廿六日迄、日数八百七十日普請仕、水抜付金躰見、鏈壱荷ニ筋金七厘有之候へ共、此御山荷数出候

付而、壱荷ノ壱分五厘金躰之切取日前之積、十五日一日宛五十八日被下、縦日前之内成共、金躰増候者御運上ニて堀可

申候。宜金躰有之、隠密ニ而掘取仕、脇より於申出者可為曲事也。

明暦三年二月十五日勘左衛門判(漆戸

九左衛門判(毛馬内)

仁左衛門