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一度のつなぎの精算や、年末の月行事交替に立会う五人の与(組)頭とは、沢中における五人組の組頭たちの代
表であったと思われる。
五人組については、慶安二年一二月に、金山奉行に宛てた青山庄左衛門の「恐れ乍ら御訴訟申し上げ候事」の
なかに、数年来きりしたん改めを命ぜられてきたが、若しきりしたん宗旨の者が山中へ入りこみ、他より届け出
られるようなことがあれば拙者の手落ちと思われるばかりなので「若し壱人なり共かくし置候ハ、其家主ハ申す
二及ばず、五人組共ニ急度籠者ニ仰付けられ可き旨御証文下され度く候」と願い出ている。また翌三年二月、山
師の鍛治久七方に止宿していたきりしたん長左衛門が密告により捕縛された時、久七親子と共に久七の五人組の
者四人が盛岡へ送られ入牢となった。きびしく連帯の責任を問われたのである
切支丹改と留山
日根沢中における五人組の結成は、きりしたん取締りによって促進された。寛永一六年
一六三九)一二月、切支丹御調につき久保田より渋江内膳等の出張があり、盛岡・秋田
両藩よりそれぞれ検使役が出、白根北方の領境地帯山中の探索について打合せが行われた。一二月一三日の晩
秋田方の主張によると秋田方検使が雪中であるため籠屋沢新田の空家に入って休息しているところへ、南部領の
者共が押し掛け乱闘に及んだ、という事件が起こった。これより先、同一三年四月、藩主重直が逼塞を命じられ
紫波町
た理由の一つに、領内に切支丹宗徒が多かったことが挙げられ、藩では元和年間に繁栄した朴金山
)に
佐比内
集った人数に多く潜伏していたと弁明に努めている。因みに、寛永一二年南部領内きりしたん宗旨改人数之覚で
は、きりしたん一七六名の内「金ほり一二人、此妻子二人」となっている。
「盛岡市史
近世期上
)
寛永二〇年、藩ではさらに厳重な切支丹宗徒の詮議を名分に、同年正月より白根金山の山留めという措置にで
)。