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貞享三年八月廿六日治太夫(奥瀬
治太夫(奥瀬
九兵衛判(北
小野只右衛門殿
団半蔵殿
美濃部作左衛門殿
一通は、青山庄左衛門の扶持米として切米五駄を御蔵米から渡すよう、藩家老から御蔵奉行へ対する指示書で
ある。この時期の庄左衛門は、四代庄左衛門昌光と思われる。文中の、沢中の者共が金山奉行両名を以て申し上
げてきたのでこのように遣わされるのであるということは、沢中の者共の意志によってなされたものとも解され
る。二通目は、御蔵米一〇〇駄を白根の御売米として渡すという家老席の証文である。その直段は平米即ち一般
市場米の相場なみであったらしく、初期の独占的統制米価からはかなり緩和をみたものとみえる。白根御米売人
として青山庄左衛門が名を連ねているのは、おそらく保証人としての意味からであろう。三通目は御払米証文で
ある。前者の宛て先が御米売人で、後者は銅山奉行になっている。
白根の金山集落
日根金山の中心的な集落は、どこに形成されていたのだろうか。『祐清私記』などに伝わ
る、京・大坂からの商人が入込み近辺に家を建て、美々しく売物を並べ、町中に風呂屋も
でき、遊女や歌舞妓も下り「日を追て繁昌し昼夜乱舞遊曲しけり」という状況は、果してどの辺りに展開してい
たものか、今となってはその場所も定かでない。これらの繁昌記には、冒頭鹿角白根、西道等の金山を北十左衞
門が見立てたとあるだけで、「鹿角金山繁昌」の実態が、白根なのか西道なのか、または北十左衛門が両方を兼