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一、赤沢ニ於て比内古人申し候ハ、本間府嶺わり赤沢金山比内領分と申候。古人御出シ有る可き由申し候
、毛馬内古人申し候ハ、白根本間府ニ候間、古人なと入り申す儀之れ無く候。佐竹殿ハ当代ノ御事ニ候ヘハ御存知有
る間敷候。下々いたらぬものとも注進申し候ての事ニ候。それを構い申し候へハ何も御存知なき佐竹殿ニカまい申す
様ニ候。其上天下御静謐之所ニ喧嘩ノ様ニ候ヘハ、理を持ちなから理不尽ノ様ニ候間、天下の御奉行衆御上意を請け
相済む可き由、信濃守申され候故かまい申す事ニ之れ無く候へ共、餘りカさおし成され候条、両三度追いかけ申候。
と、手厳しい様子を窺わせている。
のの藩境をめぐる紛争は、御墨引後も越境事件として続き、白根沢中に生活する人々に深刻な影響をおよぼし
ていた。渡部幸三郎氏所蔵文書の内表題不明の覚書にも領境の生活諸相を伝える記事が幾つかある。
、天和三年亥八月一日、銅平ニ而白根台所弥平居り申す時、抱えノ者共、御墨引を越えかやかり候を、御山見共見咎
の儀左衛門ニ理り候。其時儀左衛門御山見召連れ右ノ場所見分、まきれ之れ無く、吉左衛門殿へ披露申候由、色々銅
師共訴訟、何時成り共状付御座候へ共、御セんき成さる可き筈ニて指置き申し候由。
一、天和三亥六月三日ニ、白根、赤沢山ノ〓合いの様子、弥兵衛方より口上書取申し候由、書付有り。
一、延宝七年未、葛原馬御墨引を越え、本山弥左衛門、清兵衛粟畑へ入り、はミ入り候を馬見当り、おさい置き候ニ付
わひいたし候て馬かへし候由、葛原ノ作左衛門、九郎右衛門と申す者ノ手形有り。
、貞享五年辰ノ九月廿日、瀬田石ノ者立石長根ニてかや、御墨引をふミ越えカり候を、御山見衆見届け、理り候ニ付、
セんき候所ニ其人共手形仕り、免し置き申し候由、手形有。
領境という行政上の線引きは、永年にわたってその場所を生活領域にとり入れ、草刈り場、かや場として利用