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秋田境松山番所の目付下斗米九右衛門、同心梅内弥伝次が、比内から来た加賀国の金掘り四人と、廻国の高
野聖およびその同行者一三人を粗漏な改め方で通したという廉で、交替させられている
『雑書』寛永二
年七月二〇日条
)。この
ような金掘りの移動には、山師が手下の掘子や大工を引き連れ集団で行う場合もあり、『梅津政景日記』に、慶
長一九年七月、阿仁金山七拾枚間歩大盛の折、新しい町割りに山師共がそれぞれ条件のよい場所を望んで「其外
一、白根・さいたう方々より為参山師共、或ハかなこ五十人・三十人宛持たる者共、よき所を一所ニ申請度と申
候」「右之者共、壱人として五十人・百人宛かなこ持候間、壱所〳ニ被渡候ハヽ、よそより為参よき者も、は
るか山遠末ニ屋敷を取候ハヽ、い来御運上山之せりあひてニも難成候」と、大いにもめている。
。白根談叢』余録に、白根金山で活躍した人々の子孫として次の諸家を述べている。毛馬内の石田家、祖先石
田儀左衛門は白根の立石金銅山を発見し稼行した人。同じく石田家、祖先の石田又市は白根や十和田銀山等の稼
行者。毛馬内山本家の祖先は伊勢国より奥州に下り、最初白根金山に落着き、のち毛馬内に移った。毛馬内伊藤
家の先祖喜七郎は紀州和歌山加藤嘉明の従臣、主家滅亡の後、会津を経て盛岡の医師関恕閑を頼り、その伝で白
根金山の山師山ノ目小平治のもとで名をなし、子松之助後喜七郎襲名の代天和年中に毛馬内に移った。
浜田村の田口家一族の祖先は白根から移っている。松山村の福本家先祖も白根に住み、石野村神明宮本願主福
本八兵衛の記録があり、同社は寛文一三年丑三月金掘八兵衛と申す者建立すという旧記も残るという。また石野
村柳沢別当家は大湯宮野平の柳沢家と同族で、石野に舎弟を残し兄が大湯に移住したとする口碑がある。毛馬内
柳館専右衛門家の祖先は白根検断専右衛門ではないかと想像される。伝聞するに、専右衛門翁は存命中度々白根
墓参に訪れていた。柳館家は下草木に多く、尾去沢にもありその他広く散在している。また宝暦九年七月、尾