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去沢御銅山山先を命ぜられて尾去沢に移った六代青山金右衛門昌周は、幼名市之助といい尾張屋五郎七(一書に

伊右衛門)家から入った人、尾張屋は白根吹屋として栄え、その後花輪へ移っている。

論地・西道

虎角の金山は、慶長年代に入ってから、白根をはじめとし西道、五十枚、槇山などが次々と開

死され、まさしく一斎に花開く有様であった。『食貨志』は、慶長三年白根山に金山を得、同

四年尾去沢に五十枚金山、次いで長牛村槇山金山が出たとし、同七年「尾佐利沢に西道金山と云出て此年又大盛

也、然れとも白根の金位の宜しき且多きにはしかすと云」と述べている。この慶長七年(一六〇二)に西道始ま

るという説は殆どの記録に共通し、例えば章の冒頭にあげた『諸山開立年限附』において然り、川口家文書『三

国金銀之根元井金掘由来之事』にも「西道金山慶長七寅年見立五月十一日なり」としている。

西道金山発見時の山師を前掲『年限附』に長尾重左衛門信景としてあるのは、明かに南部(又ハ北)重左衛門

信景の誤りで、信景は重臣桜庭安房の異父弟かつ松斎北信愛の甥、鹿角産金を携えて大坂城に入城し、夏の陣に

「南部光り武者」の異名をとり、役後盛岡城外小鷹で処刑された。その信景が金山から大坂へ走る頃のことは