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したと語り伝えている。もう一つは、鍋倉沢に帯刀屋敷があったという説で、重左衛門はここに愛妾お松の方と
共に住んで白根・西道を支配したが、その死後お松は十二所に念仏庵を建立し松月尼となって菩提を弔い、帯刀
屋敷跡は検断役の沢出善右衛門が「乱れがましき儀これ無き様相守り申す可く、春秋牛馬除ケ棚ノ間々へ茨垣等
造り直し申す可き様御沙汰」を受けて保護した(
沢出家
田緒書
というのである。なお白根銅山絵図(文政一三年)にも
帯刀屋敷が記されているが、後年の絵図なので慶長年代から置かれたかどうかは明らかでない。
沢出家由緒書は、さらに続けて
其頃秋田より申参り候ニは境之儀ハ、舛形より三四森、湧上り嶺、二ツ森ノ間、女神、男神境ノ由色々ニ申懸ケ、二ツ
森ノ内比内森ハ秋田山ニて、高瀬森ハ其地ノ山ノ由、彼是懸合い之れ有り候得共、重左衛門様挨拶ニハ左ニ之れ無く、
二ツ森ニ高瀬森と申して此方の山ニ相違御座無く候。舛形よりしばり合、土深井、白根山嶺へ通り以前ノ通り境ニ御座
候。以来使者参り候共返答ニ及ビ申さず打捨て申す可く、早々罷り帰り右ノ趣申聞く可き旨堅く相断り、夫より白根ノ
嶺え札を相建、是より内南部領と札相立申し候。今に其場処札立場と相唱え申し候
と、慶長期の金山地帯をめぐる領境争論を伝えている。戦国時代を通じ、長らく鹿角郡と境を接してきた比内の
浅利氏は慶長三年に滅び、秋田氏もまた同七年佐竹氏と交替して常陸宍戸へ去った。新領主の佐竹氏にとっては
領境の確定こそ新領経営の〓一歩であったであろう。しかも時あたかも彼我の鉱山が一挙に花開くごとく発見さ
れた時期である。同一三年西道金山が採掘され始めた時、秋田側はその採掘場所は秋田領の比内沼山であると抗
議してきた。南部側は、比内沼山、南部沼山という区別はなく、沼山はすべて西道の区域内で、南部信濃守が家
康に運上金を納めて拝領したものであると反論したが、同一五年秋田方は幕府に提訴し、裁決のあるまでは双方