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りノ金山論地ノ由」比内から抗議状が届いたが、尾去古人七右衛門に尋ねると論地ではないとのことなので、そ
の旨返書を出した。然し秋田側は承服せず、再三文書で応酬の後同九月一四日窪田より検使根本庄右衛門、瀬谷
孫右衛門が下り、十二所塩谷民部らを先達とし同所寄騎五騎上下百人程で「西道御金山西平通り見廻り拾二所へ
返られし由」との報告が藩家老席へ届いた。また明暦二年(一六五六)七月一一日の条には、塩谷民部より「西
道御金山ニ新畑四枚披キ候、沼山御論地ノ由ニ候間相止メ候様ニ」書状が来たので、その返事の下書を花輪城代
の儀俄八郎兵衛、安田覚太夫に遣わしたという記事も見える。論地をめぐる南部・秋田双方の軋轢の深まるなふ
で、延宝三年(一六七五)九月「鹿角山見長九郎、なべ倉山ニて去る九日ニ秋田領ノ者と仕相候て、秋田領ノ者
壱人切殺し候」という事件が起った。論地における紛争なので、翌四年幕府は両藩の責任者、山見、古人、証拠
人を江戸に召喚、同五年幕府検使による現地調査の上、積年の争論に終止符をうつ裁決を下した。その裁許状の
うち西道金山に関わる一条には
、金山ノ内西道本山ノ儀、比内沼山ノ由秋田領より申すと雖も、南部領より金堀來り、間府数多之れ有り。古来より
ノ金堀小屋井ビニ樹木等、其上南部ノ奉行屋鋪古跡井ビニ樹木、畑等相残り、今に至り金堀り候と相見候。其外西道
小杉平、西道崎ノ山、西道北平、西道夏山、右ノ所々南部より金堀り候古間府慥に相見候条、秋田領申す所非分ノ事
として、西道本山は比内沼山で秋田領であるという申し分は、南部の金掘りの働いた古間歩や金掘小屋、古い樹
木など、さらに奉行屋敷の古跡、古木や畑地なども残っている。その外西道の内小杉平、崎山、北平、夏山にも
南部金掘りの古間歩のあることを確かに見届けた。したがって秋田領の申す所は道理に当らぬことである、と西
道の分についてはいわば南部領全面勝訴の決定をしている。