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荷をかますニ直シ見申し候ヘハ、三拾八荷と石五拾三御座候。惣荷数百七拾五荷と石五拾三御座候カ、右我等共符判
仕り指置き申し候荷物ノ内ニて御座候間、□合を申上げ御山高直ニ仕り候御〓ニ、百六拾荷ノ外ニ拾五荷と五拾三御座
候石下され度く存じ奉り候。右より百六拾荷と荷数を定めてハ申上げず候。若し申上げ候通りニ足り申さず候へハ如何
二候と存じ、内ニ積り百六拾荷餘りと申上げ候。以ト
慶安二年極月廿四日十三日町作左衛門判
花輪市郎兵衛判
御老中様越後七郎左衛門判
この文面から、西道を三休なる者が稼行していたことと、どのような事情からか三休の掘り置いた荷のあとを
盛岡十三日町作左衛門、花輪市郎兵衛らが請け、かますに入った一四七荷と未包装の荷を目分量で一六〇荷余と
御山奉行衆へ申告した。その後かますにいれてみると惣荷数一七五荷と石五三があった。ついてはその内一六〇
荷を上納し、残りの一五荷と石五三は自分達に与えていただきたいと願い出たことがわかる。この三休について
は、『雑書』慶安二年八月一九日条に「西道御金、過分ノ金躰之れ有り、□肴町三休ニ□」と見え、さらに同年
一二月六日条に「西道御金山ノ儀ニ付て、沢中ノ者共肴町三休と工事ニ候」とある。八月、西道に予想以上の金
躰が発見されたので盛岡肴町の山師三休に稼行させたが、程もなく沢中の者たちと争い訴訟沙汰を起した。その
後の消息は伝わっていないし、一七五荷余の出荷数は何日分なのかも明らかでないが、相当の盛山であったこと
は想像に難くない。
西道金山に対する藩の評価は高く、期待もまた大きかった。白根と同様、専任の金山奉行が任命され、一山の