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金山奉行は二名宛任命されており、右の内で一名にとどまるのは相役不明の場合である。慶安期以後の奉行〓
は、例えば帷子多左衛門、鳥屋九右衛門、笠間三之助、織笠斉宮、岩根又兵衛、美濃部作左衛門は高二〇〇石、
儀我重右衛門は三五〇石とかなり上級の藩士が任命されている。
延宝八年二月、藩は槇山金山奉行儀我忠右衛門、伊藤団右衛門の両人を御役御免とし、その跡を埋めぬまま西
道、槇山両金山併せての支配を命じた(
「雑書』延宝八年
月一〇日条
。翌三月、尾去沢銅山奉行が任命されているが、しばら
くの間西道金山奉行も存続したようである。
金山としての西道がどのように経営されたか、その実態は殆ど判っていない。しかし藩直営の直山法をとり、
運上金あるいは掘分けによる上納金を徴していたことは、白根と同様であったと思われる。
、西道西平ノ金山、夘月廿五日ノ朝普請相済み、けたい見出し申し候。一荷ニ弐分之れ有り候。其後昼過ぎより申ノ
刈迄山祝ニ堀取ニ仕らせ候。同廿六日又朝より堀わけノ荷出させ申し候。昼よりけたい之れ無く、一荷ニ五厘も之れ
無く候間、又普請山ニ申付け候。何時よりもけたいニて御堀わけニ仕る可く候
(『雑書』寛文一二年五月二日条)
、西道杉平、若松利兵衛堀捨ノ水貫普請望ミ候ニ付、願ノ通り申付ケ証文出シ、留書御金奉行ニ有り。但シ望人花輪
町仁左衛門。
(『同』延宝七年七月廿八日条)
町仁左衛門。(『同』延宝七年七月廿八日条)
西道西平の金山で、普請掘が終っていよいよ金躰が見つかり、吹いてみると一荷に二分の金がでた。ここで
「けたい」とあるのはおそらく金躰の意であろう。翌日掘分けの荷を掘らせたが、その昼からはさっぱり金躰〓
当らず、又普請を続けさせることにした。金躰の状態によっては、いつからでも掘分けにさせるつもりである、