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これは次第に産金が減少するにつけ、貧窮しつつあった山師に対する藩の救済策であったろう(〓

「雑書』寛文元年)

○月一四日条

)。

一、西道金山十九軒ノ者共ニ、一間ニツキ米一俵ツ、借申す可き由仰せ出され、其段儀我忠右衛門老中三人列座ニテ申

渡ス。

(『雑書』延宝三年六月八日)

一、鹿角西道御金山、小屋十九軒ノ内八軒明キ候由、儀我忠右衛門神尾権太夫披露。

(『同』同年一一月一六日)

延宝に至ると、西道金山一九軒と縮小し、一軒当り米一俵宛借米の形で給付したが、やがて一九軒の内八軒が

明き家となってしまったという。時代は、金山から銅山へと移行しつつあったのである。天和元年(一六八一)

幕府巡見使への答書覚に曰く「西道山役ノ儀も候哉と御尋ね候ハ、三拾年以後金も出申さず、漸く口すき斗りニ

御座候ニ付、近年は拙者共花輪町ニて米、粟、稗買調え妻子共はこくミ罷有り候。米売買不自由ノ時分ハ、山役

候へ共方々訴訟仕り、大膳蔵米買い申す時分ハ、町相場ニ代金上け申事、仍て諸役義も仕らず候。尤も先年掘始

め前後ニハ金も数多罷り出、其節ハ間府壱口切ニ、其躰ニ寄り運上金上け申す由、承り候」(

渡部

家文書

)と、この時

点では金山として窮迫の底にあったのである。

なお、前述の如く西道金山の南側にあたる「鹿角尾去沢七曲りノ金山論地ノ由」

『雑書』慶安元年

二月三〇日条

)の抗議状が

花輪城代の許へ届き、その後も再三秋田藩家老より「西道御金山論地ノ旨」あるいは「尾去領山論地ノ旨」の抗

譲があったが、「西道金山跡置、此方西道口村々ノ上迄指越申懸けられ」

慶安四年二月一四

日付目安返状

)という花輪古人等の

表現の通り、西道金山の範囲はかなり南側を含んで総称されていたように思われる。