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石小屋唯今ノ上新田也」と記されている。この金山もそれ以上のことは明らかでなく、夏山の位置が石畳の南の

夏山長根とよばれる辺りであろうから、西へ下ってもっとも近い部落の上新田に、製錬を行う買石小屋が作られ

いいた。『雑書』における唯一の記事として延宝五年九月二九日条に「鹿角夏山金山惣奉行切田小兵衛、小向四

郎右衛門今日申渡ス」がみえる。寛文三年から一五年後のこの年まで継続稼行されていたのか、一時休止しこの

年に再び奉行を任命する程復活したのか、この史料からだけでは判断できない。

鶏長根金山については、『開立年限附』によると、正徳三年(一七一三)山師喜八の見立てで御手山となった

が、のち出不足のため普請山にかわり享保三年(一七一八)日前五カ月で田郡沢の源太郎が働いた模様である。

見延元年(一七四八)盛岡商人仲間が跡を請けたが金躰に当らず、願い人も出なかったという。前掲の『金掘由

来之事』には、正徳未年(五年)嘉八の見立、銅山支配人和久屋平左衛門が稼行したと記されている。この金山

の場所は、石畳の峠を越えて元山へ下る坂の南側に当たる高台であろう。

姥懐金山

刀禄一二年(一六九九)に姥懐金山が現れているが、その所在地もはっきりしない。現在姥懐と

う地名は消滅し、田郡、永坂、崎山にそれぞれ姥鋪があり、白根にも姥鋪がある。次の文書に

鹿角尾去沢ノ内姥懐金山」とある通り、尾去沢地内であることは疑いないがその位置はまだ確認されていない。

雑書』元禄一二年五月二日条に、尾去沢姥懐金山の金躰が段々直りになってきたので御代官と御山奉行を遣

わして吟味させた処、弥々金躰が能くなったとのことである。さらに念を入れ吟味するようにと御吟味方小菅次

〓兵衛、御勘定頭長嶺茂左衛門とその外関弥五左衛門を遣わした。御歩行目付高橋吉左衛門、御物書朽内与九郎

をも遣わした、とある。このような物々しさはあまり前例のないことで、それだけに当初の姥懐の金躰が並すぐ