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姥懐金山奉行は他山と異なり、初めに四人相役制がとられたらしく、その盛山と藩の熱心な取組みぶりを窺わ
せている。また折戸家文書の「中間相定メ手形之事」
『尾去沢・白根
鉱山史』資料編
)からは、元禄一二年一一月水原徳左衛門、
小浜屋重助らが仲間組合を作って稼行する為、「丁前ノ儀ハ五丁ニ割り、四丁ハ貴殿御中間へ御取、壱丁ハ我等
方へ遣わさる可き定ニ御座候。御礼金ノ儀ハ五百両迄其元より御上げ成され候筈」などの約定を交していること
が知られる。この金山について、その後の変遷はわかっていない。
長坂金山
田郡の南の長坂金山は、元禄八年(一六九五)銅山として見立てられ、翌九年の暮から金山にか
んり、元禄年中金山として大盛をみた後また銅山となった。『開立年限附』には、山師井上仁左
衛門が三カ月一、〇〇〇両の御礼金で稼ぎ、同一一年一二月一一日より同晦日までの間に金二貫五四六匁三分一
厘を出したと、その盛山ぶりを伝えている。『金掘由来之事』によると、元禄夘ノ一二年より午ノ一五年迄四カ
年が大盛で、七分三分の掘分けとし七分は上納三分は山師分であった。その境界は、西ハ吉沢落合限り、東ハ牛
道長根限り、南ハ楢木坂限り、北ハ夏山道限りとしている。その見立初めの状態は沢出家由緒書に、なお詳しく
述べられている。
、元禄八年長坂山を見立御忠信堀願上げ候処、願の通り仰付けられ鋪口を附け普請いたし切延べ候処、鉗に相当り候
二付直々御訴え申上げ、山師え相渡し銅山ニ相成り大直り堀り申し候。同九丙子年より三ケ月三千両宛御礼金差上げ、
瓦も三ケ月壱度ツ、取調べ、其後売上高七分三にて七分ハ御上え三分ハ山師頂戴仕り、此節御奉行として三人宛外ニ
御目付壱人御詰合ニ御座候。尤も家数八百軒余之れ有り御役所之れ有り、諸願書并びに吹金書上帳は別帳ニ之れ有り。
同十二年より鋪口え水風呂相建て日々わらんじ等迄洗い候ても弐三拾匁ツ、取申し候