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由緒書特有の誇張もみえるが、長坂山を沢出善右衛門が見立て、

忠信掘を行ったとしている。忠信掘とは、自費で普請掘りし藩主に

献上するという意味であろう。その結果釦を掘り当てたので直々報

告の上山師へ引渡した。同九年の三カ月三千両ずつ御礼金云々も過

分のようにみえるが、善右衛門自身の稼行ともとれる曖昧な表現で

ある。役所があって金山奉行三人宛と目付一人が詰合い、家数八百

軒余ということもにわかには信じ難い。鋪口に水風呂をたて、毎口

草鞋を洗っただけでも二、三〇匁の金がとれるという表現が面白い

同由緒書には、元禄一六年一〇月善右衛門は長坂金山奉行黒沢小弥

太、戸田権右衛門から申渡しをうけ、尾去沢御銅山へ戻り前々通り

山中支配を仰付けられることになったとしている。

また『尾去沢・白根鉱山史』には、元禄八年日前三カ月或いは五

カ月で、山師寺田八左衛門、岩田五兵衛その他花輪の者が稼行し、

翌九年大盛となり小屋数百五六十軒も建って正徳の頃まで続いたが、

宝永初年に阿部小平治が銅山として稼行したとある。いずれにして

も金山としての長坂は、比較的短命だったわけである。

第4図長坂金山跡の水路石垣