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〓槇山金山・その他
峠下の金山
あった。
槙山は、夜明嶋川の支流槇山川を遡った上流の谷合を占める。金山の西側の尾根が比内との境
界で、その巻山峠を越えると大葛の金山集落へでる。古代からの鹿角・比内を結ぶ連絡路でも
槇山金山は、白根発見の翌年慶長四年(一五九九)に見立てられ、やがて北十左衛門によって白根、西道、植
山三金山が支配されたといわれる。『開立年限附』には山師小田嶋勘助が稼行し小屋数一、〇〇〇軒、元禄三年
より七カ年毛馬内町山師能登屋清左衛門が金銅山として働きのち銅山になったと記され、『鹿角郡諸鉱山記』〓
慶長七年秋田領十二所村嘉左衛門が見立て、その釦を白根の庄左衛門の許へ持参し鑑定の結果金山に決定したと
している。小屋数一、〇〇○軒というのは鉱山の大盛ぶりを表現する常套語で、白根千軒、西道千軒といった類
いであろうと思われる。然し寛文六年(一六六六)四月二九日間歩小屋二四軒焼失、同年一一月六日山火事のた
め山仕小屋三二軒が類焼したという記録がみえるところから、かなりの鉱山集落を形成していた。なお川口家文
書『金掘由来之事』には右御山境として「上ハ御墨引限り下ハ折渡限り、東ハ大屋より水沢登り笹森迄、北ハ寺
屋敷長根限り、尤も御境三拾間相除ク」と記している。同書には金山師柏屋与左衛門、稼人高瀬昨太郎の名がみ
える。槇山関連の記事を『雑書』に拾うと
○承應二年(一六五三)一二月六日
、鹿角ノ内槇木山御金山ニてノ御売米直段、自今以後壱匁弐分宛ニ拂上け申す可く候。盛岡新町二郎右衛門所へ手札