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この年代における白根の産銅は、他の銅山を抜いて目立って多い。右の数字は他領出銅の数量なので、産銅の

総量はそれに十分一銅を加えた数即ち他領出銅の一割一分一厘強を増したものとなる。即ち延宝二年には他領出

銅二万一、二六四貫余であるから、それに十分一役銅分を加えた産銅量は約二万三、六二七貫余となる。その床数

も、延宝三年五月まで四丁で吹いていたが、同年六月から床五丁で吹出している。同四年、同七年にも床五丁が

つづき、同八年に床三丁とみえているが、天和三年には床八丁に増し、貞享二年四丁となって一定しないのは、

銅釦の出鉱状態に左右されていたのであろう。

他領払銅役は十分一に一応定着しているようであるが、前述のように寛文一三年六月藩が菊地久左衛門らに与

えた証文には十分二の上銅を命じ、延宝元年一〇月に至ってその願いの通り十分一役に改めたという経緯がある。

『雑書』延宝五年正月八日条によると、鹿角白根銅山の役金を和賀水沢銅山と同様、床一丁に付金一両であった

のを一両二分に、他領払役十分一を自今十分二に、買上銅一両に付二〇貫目を自今三〇貫目五割増とすることを

山師共に申渡した。しかし「所々銅山師共ケ様ニ仰付けられ候てハ迷惑仕り候由、達て訴訟申上け候ニ付て、左

様ニ候ハヽ多年ノ通りニ仰付けられ候」として、金増の申渡しを撤回している。

他領出の銅は、延宝二年から六年まですべて盛岡から北上川を下っている。通し証文には北上川通黒沢尻鬼柳

御番所、鬼柳黒沢尻御番所、北上川黒沢尻御番所、黒沢尻御番所、北上川通改所、黒沢尻川改所などと記されて

いる。その搬出の時期は四月から九月までの各月が多いが、一一月や一二月の日付もみえている。当時いわゆる

鹿角街道を運んだであろうから、積雪期の峠越え特に七時雨道を寺田へ越える区間など、その難儀は想像以上の

ものであったと思われる。また延宝二年一二月一二日付証文には、註記して、川が氷のため舟の往還ができない