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日根銅師吉田清兵衛と山ノ目小平治に宛てた書付である。宛名書の山ノ目小平治の次に小さく作兵衛とあるの
は、作兵衛は小平治の手代という意味であろう。ここでは吉田清兵衛そのものは『鹿角志』等にある小平治の手
代というより、小平治を金主とする独立の山師であったと思われる。一九〇両は上納役金で、その内訳は元禄六
年酉年における銅床四丁の役金、金間府の礼金、に土(丹土、赤色の土)と丹礬の礼金、翌七年戌年における銅
床三丁の役金と金間府、丹土の礼金である。金間府礼金がみえるので量は少なくとも引続き金の産出があり、ま
たその年により丹礬いわゆる沈澱銅採取の原料となる硫酸銅も産していたことがわかる。同戌年の十分一銅が八、
一九七貫二八九匁であるから、産銅総量は八万一、九七二貫九〇〇匁で、十分一役銅を差引いた他領出銅は概ね
七万三、七七五貫六〇〇匁となる。この産銅量は斤数にして五一万二、三二五斤余となり、相当規模の水準にあっ
た。
白根の消長
口根銅山の産銅は、『雑書』の他領出通証文からみて、延宝四、五、六年は五万貫台、同七、
ハ、九(天和元)年は四万貫近くを維持している。天和二年には一〇万貫を超え、翌三年も九
万貫台に達した。貞享元年はどのような事情があったものか一万貫を割っているが、その翌二年には再び五万貫
台に復した。以後の産銅高についての記録はないが、元禄七、八年の状況は阿部小平治『大福帳』によってほ〓
知ることができる。この前後やはり四、五万貫台で推移していたものと思われる
ここで気がかりなことは、浅井小魚『白根談叢』収載の岩尾家史料に「寛文九年申七月御銅山に相成、其節山
ノ目小平治仰付けられ相働、貞享年中御休山に相成候へ共、私共斗り相残り凡そ弐百年餘御国恩有難く頂戴住居
仕り候」云々とあることで、同書尾去沢高橋家之旧記「白根初之覚」や川口家文書『諸事万事集書入扣』にも殆