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この人口は領内鉱山の総計であるから、和賀郡水沢銅山、当楽銅山その他の鉱山も当然含んでいるが、白根、
立石、狼倉に尾去沢諸山を加えた鹿角の占める割合の大きさは容易に推測できる。元禄中期から所々金山の人口
が減少しているのは、全般的な鉱山不振とともに連続して領内を襲った飢饉によるものであろうといわれる。
元禄一六年三月朔日付で青山庄左衛門、田口佐左衛門の提出した「白根御沢かつゑ人共人数書上申候御帳」に
よると、飢餓に苦しむ者一六軒六四人であるとして、救済のための味噌五斗七升六合を受取っている。また岩尾
家史料(
『白根
談叢』
)のうち享保二年(一七一七)二月一一日付証文写は「御蔵米拾五駄、白根金堀百三十人渇命ニ及
ひ御山奉行申上げ候に付、当六月より同八月迄上納候筈、利無し借遣わされ候」と記し、藩家老から毛馬内御蔵
奉行上野小一郎、米田与五衛門に宛てられている。凶年による山内難儀の際には、藩としても再三救援策を講じ
ているようにみえる。
その後の白根銅山は、前掲「白根初之覚」等にあるごとく「正徳元年卯年より享保四年迄に大坂屋清八働、享
保五年子年迄白根伝吉働、享保五年子年より同十四年酉年迄十ケ年中和久屋平左衛門働、同十五年戌年より盛岡
四ツ屋長治働、享保十六年亥年より元文三年午年迄七ケ年中花輪惣七働、其後段々出不足に相成り望人定らず
(略)明和元年申年より御手山にて働」と、頻繁に稼行者を交替しているのは、それだけ鉱況不振のまま推移し
たという証左でもある。
『雑書』寛保三年(一七四三)七月一八日条に「白根、狼倉銅山此度山師花輪町善右衛門仰付けられ候段」云々
の記事がある。この善右衛門の普請にかかわることが同じく翌延享元年五月晦日条に、次のように記されている。
即ち、白根狼倉銅山師の善右衛門が願出るには、白根大剪普請を進めてみたが、初めの予定より遠丁となりその