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延宝初期の通し証文はおもに北上川通の改所・黒沢尻番所へ宛てられ、後半は米代川通の松山番所が多かった。

前出の延宝七年床役請取証文にある「床役炭役金共ニ壱丁ニ付三両弐分宛」はその後も継続され、天和二年(一

六八二)一二月二二日付請取証文(

渡部

氏所蔵文書

)に「金弐拾両ハ鹿角毛馬内ノ内立石銅山天和弐年分床炭役金、内

壱両ハ床壱挺役金、内弐両弐分ハ炭役、同拾六両弐分ハ増金、右ノ通り今度上請取り納め候者也」と認められて

いる。藩老三名の連判、宛先は白根儀左衛門、庄太夫、作兵衛である。

天和以降の立石銅山について『鹿角郡諸鉱山記』によると、石田儀左衛門が見出し阿部小平治に援助を頼んで

山を請け盛山となり、その後佐渡屋八郎右衛門が大坂の泉屋庄左衛門を金主として請けた。貞享二年(一六八五)

の冬、雪崩のため八郎右衛門や手代そのほか二一人が横死したという。正徳五年(一七一五)幕府が尾去沢・白

根・立石三山に六五万斤を明年より大坂廻銅とするよう命じた時、藩は白根銅山について「山末に罷成り、山師

共勝手に合い申さず候故当分相止め申候」と、また立石銅山について「近年銅出申さず候ニ付、山師共望人御座

無く候」と答えている。しかしその実態は白根は大坂屋清八、立石は青山伝助が稼行しつつあったものとみられ

ている。

駒木銅山は『諸山開立年限附』に「享保十九年二月願人十和田銀山山師又市、元文三年より七ケ年中山師新保

勘七、花輪町彦兵衛相働也」と記されている。その位置は白根銅山の北側に隣接し「御山境南白根嶺限、西御境

下、東駒木沢水落残らず、北ハ立石御山続」であった。初め金山であったらしく『鹿角郡諸鉱山記』には、延宝

年中新保某が見立て阿部小平治の仕入れによって稼いだが、金品位の高い割に出不足だったために休止したとあ

る。のち一時石田儀左衛門も請けているが、初代又市は儀左衛門勝永の弟に当る。