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尾去沢銅山という名称は、右に「尾去沢御銅山ノ内」とある如く、初めに尾去沢という単独の銅山が存在した
のではなく、尾去沢三沢と後年よばれる田郡沢、元山沢、赤沢などの各山を網羅する広い地域の総称として使わ
れていた。『雑書』にみられる延宝六年(一六七八)から貞享元年(一六八四)に至る他領出銅の通し証文には、
終始「西道尾去沢山」と表現されていて、銅山に移行する初期の状況を端的に語っている。尾去沢銅山の始まり
といわれる寛文六年(一六六六)の頃、この地域の中心はなお西道にあった。山師長尾重左衛門が西道の西南田
郡沢に銅山を見立て、つづいて横合とよばれた元山沢にも銅鉱を発見したという。しかし新たな銅山の支配は、
依然として西道金山奉行が握っていたとみられ、同金山奉行の任命は延宝八年八月まで続いている。『雑書』同
年三月一日条に「鹿角尾去沢銅山奉行大矢三右衛門仰付けらる」とあるのが尾去沢の初見と思われるが、その尾
去沢はどの範囲をさしていたのであろうか。川口家文書『金掘由来之事』に「尾去沢銅山寛文六丙午年見立、同
年三ツ矢沢初ル、右御山境、東ハ赤沢崩西道より流川笹小屋外落合限、南ハ長坂金山境上新田水流限、西ハ大物
長根道通下新田沢水落合限、北ハ崎山境西道獅子沢落合限」とあり、いわゆる三沢その他を包含する広範な地域
であった。この記事には「右山師共左ニ」として「長尾重右衛門、三上多兵衛、川内屋留兵衛、熊谷治兵衛、山
野目小平治、和久屋平左衛門、天王寺や治右衛門、関新助、和久屋平左衛門、生子屋長左衛門、尾山屋武兵衛、
同伝左衛門、伊久屋長治、藤田権四郎、南部屋八十治、福嶋源兵衛、嶋屋市郎兵衛、泉屋専左衛門、盛岡廿三人
組、盛田屋六右衛門、明和弐年酉ノ十一月四日より御手山ニ相成支配方井上庄兵衛」と列挙され、次いで「右ニ
付御山境ノ義ハ御墨引百間相除、内残らず仰付けられ候。東ハ米白川限仰付けられ候」と書加えられている。こ
の山師名は、『諸山開立年限附』に列記されているものと殆ど同じであるが、後者には長尾重左衛門の次に「泉