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屋支配本」が入っている。
尾去沢銅山の寛文六年発見説にも異論があり、『鹿角郡諸鉱山記』等には、その見立始まりを延宝三年長尾十
左衛門によるとしている。天明八年(一七八八)「御巡見使之砌御答筋抜書」
『青山家
雑史料
)には「銅山働年数延宝年
中より今年迄百拾弐年程ニ相成申候」とみえる。この延宝に始まるとの説は後年まで尾を引き、例えば明治一二
年『当山原由取調』に「当尾去沢銅山発見延宝元年より享保十八年五月十二日迄盛岡商人泉屋千石衛門相稼」云々
と記している。いずれが正しいかはさておき、「尾去沢三沢鋪口年数之事」
『青山家史料雑
二』天保七年
)という書上には、元
山の本鋪寛文六年、田郡又右衛門鋪寛文八年、同姥鋪延宝五年、同水鑓鋪天和元年、元山熊谷鋪宝永七年、赤沢
いなり敷寛保元年などとその開坑年代が述べられ、寛文六年の発見は田郡沢ならぬ横合(元山沢)で、田郡又右
衛門敷も寛文中には開かれ、延宝説を否定する形となっている。
「雑書』にあらわれた他領出銅の通し証文の初見は次のとおりである。
一、西道尾去沢ニテ吹出候銅、正味三千五百拾壱貫五百目、固数二百八拾四固小数五百三十五枚、右ノ御拾分一金子ニ
テ指上、比度銅山師清兵衛他領へ商売ニ出シ候。相違無ク通シ申さる可き也。
延宝六年十一月五日兵助(桜庭
延宝六年十一月五日
兵助(桜庭)
治太夫(奥瀬)
九兵衛(北)
黒沢尻御番所