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ることを願って許された。床役金は一カ年一丁につき二〇両であった。炭木を伐る山は立菱山、不足の場合は水

沢、熊沢の内と指示されている。そして右の証文と同日付で治兵衛に対する蔵米貸付証文が出されている。

遣候證文

、尾去沢、田郡両所銅山、河内屋留兵衛ニ来年子ノ五月より巳ノ四月迄五ケ年ノ日前ニ遣し候。其方金本仕り候ニ付、

留兵衛堀子共飯米料花輪、毛馬内両所御蔵米、来年正月より壱ケ月弐百駄充、三ケ月分ニ六百駄借し遣わす筈、代金

時ノ相場を以て、第四ケ月目ニ急度指上ケ申す可く候。段々右ノ積を以て先エ御米借し遣わさる筈、其時々ノ相場次

第、代金滞り無く指上ケ候定メ、若代金出し兼候ハゝ右両所ノ山にて吹出し候銅押え取る可き事。

天和三年亥九月十六日権右衛門(下田

七左衛門(楢山)

治太夫(奥瀬)

九兵衛(北)

八幡丁治兵衛

留兵衛堀子共飯米料」として花輪、毛馬内両御蔵から一カ月二〇〇駄四〇〇俵、三カ月六〇〇駄を貸与える

ので代金は時の相場をもって納めること、もし代金を出し兼ねた場合は吹出銅を差押えるとしている。尾去沢銅

山について前者には「西道ノ内尾去沢銅山」、後者には「尾去沢、田郡両所銅山」と表現されている。初めの頃

西道の地名で広い地域を包括していたのが、後には西道にかわって尾去沢の名で広範囲を総称するようになった。

貞享四年(一六八七)正月二三日、八幡丁治兵衛が単独に証文を与えられているが、その文面には「鹿角郡西道