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(秋田出)

一、三拾八文大里より湯瀬迄(秋田出

、銅壱固九文ツゝ土深井より沢尻へ

一、九拾文湯瀬より田山迄

、同八文半沢尻より十二所へ

一、五拾九文田山より新町迄円

、同拾弐文十二所より扇田へ

一、百九文新町より寺田迄但シ弐固附ニてハ七十三文也一、同四拾文扇田より能代へ2

、同弐匁三分能代より敦賀へ

一、百文田頭より盛岡迄右同断一、同四匁川通"

、同四匁川通御役

秋田出銅は、もっぱら土深井番所を通過して出されるようになり、『雑書』には宝永六年九月一四日土深井番

所に宛てた書付の写が書留められている。「花輪御境十文字脇道、前々ノ通商売物等堅く通し申す間敷き旨仰付

られ候、長坂、尾去沢、獅沢山師台所荷物ハ、先規ノ通り御山奉行共ノ手判ニて通し申され可く候以上」とあ

り、土深井番所を他の商売物が通るのは堅く禁制となっているが、長坂、尾去沢、獅子沢の産銅に限り銅山奉行

の手判があれば通してよろしいという意である。

正徳のお手山

阿部小平治による尾去沢ほかの稼行も、長くは続かなかった。元禄から宝永へかけての度重

るる凶作・飢饉により盛岡藩の財政は窮迫を告げ、加えて宝永五年四月幕府より江戸北の丸

代官町の普請を命ぜられ、その費用の捻出を家中の献金に頼らざるを得ない状態にあった。このような藩の事情

を背景に「宝永年中小平治へ御無心仰せ懸られ、御山御取返し遊ばされ御手山に成され」

「鹿角郡諸

鉱山記』

)という仕儀

に至ったのである。

止徳二年(一七一二)七月朔日付の「鹿角御銅山御手山御定目」には二一項目にわたってこまごまとした規定

をあげているが、その中から御手山稼行の有様を物語るいくつかについてその大意をあげてみる