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利幹が入国の途次花巻へ到着早々、銅山に対する満足の意をあらわしていることが記されている。即ち「覚」と

して「一、銅山御手山ニ遊ばされ五ケ年ノ内存ノ外御山宜しく、尤も大坂ノ御登せ銅滞り之れ無き故、唯今迄ノ

御大用共相調イ候事、各精ヲ出し相働キ候段、御満足ニ思召され候」云々とあることから察するに、期待通りの

実績があったものと思われる。小葉田淳著『鉱山の歴史』によると、宝永五年(一七〇八)より正徳五年(一七

一五)までの間における大坂登りの荒銅高が次のように示されており、これで見る限り尾去沢の産銅は、正徳に

入ってから宝永年間のほぼ二倍に達したことになる。

宝永五-正徳元(平均一カ年登高)正徳二-正徳五(平均一カ年登高)

陸奥尾去沢三〇八、九二二斤六四四、二七一斤三一

陸奥白根一七九、八五〇斤二五四、五七六斤

〓長崎御用銅の時代

大坂廻銅令

至国の銅山は、山元において荒銅即ち粗銅の製錬を行い、荒銅は殆ど大坂へ送られた。大坂で

は、これを吹屋が真吹し不純物をとり除いて精銅にした。精銅はさらに棹銅に吹立てられ、長

崎輸出銅と一部国内販売の地売銅がつくられた。棹銅とは、南蛮絞りによる抜銀銅である。

わが国貿易における銅の輸出は、天和・貞享の頃から一段と増加をみ、貞享元年(一六八四)は五一三万余斤、

翌二年には五六三万余斤をかぞえた。元禄元(一六八八)-七年の輪出銅高は四-五〇〇万斤内外であったが、

同八年には六〇〇万斤を越え、同一〇年には八九〇万斤以上にも達した(

小葉田『鉱

山の歴史』

。しかしこの水準を維持す