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伊藤長治の追放後、尾去沢の稼行を請けたのは伊久屋(幾屋)権四郎であった。権四郎は藤田権四郎といい花

輪出身の盛岡商人であったらしい

「尾去沢・白

根鉱山史』

)という。享保一八年五月一二日付の遣証文には「其方儀諸事山

万御預け成られ候間」と表現され、あくまでも御手山を委託するという形式が保たれていた。証文の条項は山培

のこと、銅山入用の炭春木諸材木のことなど殆ど先規、先例の通りであったが、役銅については「銅山奉行改を

請ケ、拾分壱差上ケ、残銅ヨリ拾六貫匁入壱箇ニ付床役銀八匁三分宛差上ケ候筈、但シ拾分壱銅山元ニて其方へ

相渡シ候ハゝ、壱箇ニ付壱両壱歩銀五匁宛ノ積り代金ニて上納仕り可く候。尤も拾分壱銅も壱箇拾六貫目入相定

め候事」と記されている。この時期になると、床役はかつて床数について課せられていたものが銅一箇(一六貫

当りの床役銀にかわり、十分一銅も現物納からすべて金納にかわったことがわかる。証文末尾の項に、只今まで

晋請を続けてきた長坂金山について特に意を用い、金躰に当ったならば早速に報告いたすべきであるとして、そ

の期待の強さをのぞかせている。しかし伊久屋権四郎の稼行はごく短命に終り、翌年の夏には早くも交替せざる

を得なかった。

前述の関新兵衛書付にみられる如く、大坂における廻銅売渡しが既に藩の意志通りに運ばれなくなっているこ

とと同じく、銅山経営そのものも大坂銅会所や金主たちの思惑によって左右される事態に至っていた。『雑書』

享保一九年一一月二六日条に、尾去沢銅山支配を南部屋八十治へ仰付けられたにつき銅山台所を引渡すべきこと

を、大坂の菱屋喜平次方から派遣され滞在していた金主相哥屋新右衛門、伊勢屋藤兵衛に対し申付けたが、大坂

会所並びに喜平治の差図のない内は引渡し成り兼ねると拒否された。江戸において長崎奉行細井因幡守へその善

処方を願出たところ、奉行の言うには、銅山台所の請取り渡しの相済まざる内は出銅に差支えを来たし廻銅延引