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にもなり兼ねない。相哥屋、伊勢屋の二人を尾去沢へ遣し置くよう奉行から命じたことはなく、その引払いにつ
いて云い付ける筋合ではないが、廻銅延引となれば公義御用の障害ともなる。よって会所や喜平治と談合し、尾
去沢に居る両人を引取るよう申し合わせるであろう、とのことであった。銅山支配が伊久屋権四郎から南部屋八
十治へ移る過程で、どうしてこのような悶着が起こったのかはよくわかっていない。盛岡より御用人簗田物集女、
御勘定頭工藤弥右衛門らが急遽銅山山許へ出向き、一二月一四日までに引渡しを完了させているが、思うに伊久
屋権四郎支配時の前借金の返済にかかわり、その債権者である大坂銅会所や菱屋喜平次の強硬な取立手段の障壁
に逢着した結果のことであったろう。
南部屋八十治、稼行す
南部屋八十治は江戸の商人といわれ、享保一九年八月「尾去沢銅山支配元仰付けら
れ」る旨、江戸において申渡された。支配御免となった伊久屋権四郎は引続き銅山
働を命ぜられたが辞退し、長坂金鋪御用を仰渡されている。銅山支配時代と同じく五人扶持と公用時の伝馬を許
され、かつ「金鋪入方金一ケ年百三四十両計り宛尾去沢銅山より請取り候様」厚遇されながら、どういう訳か四
乃月足らずで御免となり、長坂金鋪も南部屋八十治の普請するところとなった(
「雑
書』
)。元文元年(一七三六)八
〓一〇日付南部屋八十治宛遣証文には、おおよそ次の箇条が認められている(
)。
尾去沢銅山
開坑原由』
、鹿角郡尾去沢銅山を当辰年より申年迄五カ年間無掴にし、お手山の積りをもってお預け遊ばされる
、長崎会所から銅前金で拝借してきた分は、年々出銅をもって上納することに定めるので、山働きに精を出し箇数が
少しでも余計になるよう御用銅の廻銅につとめ、間違いなく上納すべき事
、役銅については銅山奉行の改めを受け、十分一を差上げた残銅一六貫匁入一箇につき床役銀八匁三分宛指上げる事。
但し十分一銅を山元にて渡す場合は一箇につき金一両一歩銀五匁宛の積り代金にて上納いたしべく、尤も十分一銅も