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一箇一六貫匁入と定める。

、山境については東は赤沢嶺西道流川限り、南は長坂金山掘末銅山の分槇山境上新田水の落合大物長根道通り、北は

崎山境西道獅子沢落合限りと申付ける。

一、銅山入用の炭、春木、竹、諸材木等は神木、水ノ目、御鷹の巣に構い無き所から、御山奉行の指図によって取り出

すべき事。

、春木揚げ場は、先例の通り地主へ相対にとり決めるべき事

、市の渡、繋川目橋普請等は、鹿角郡高割の内一、〇〇〇石分相勤むべき事

附として、山中道普請、役屋普請その他先格の通りであること、山中役屋物売りについても其方の勝手次第

であること、銅他領出の際は銅山奉行の判形をもって番所を通し追って証文を遣わすべき事、山中金銀錫鉛の脈

筋に当った際は早速注進する事などを述べ、「右銅山御手山ノ積りニして其方へ仰付けられ候上は、御山仕入全

等指支之れ無き様ニ随分相働き、御徳用之れ有り御為ニ相成り候様ニ精力ヲ尽し相勤め申す可く候」ことを強〓

している。最末尾を「諸事銅山奉行の差図を得先規の通り相稼き可く候。非道の儀仕り処百姓に迷惑及ばざる様

相勤む可き者也」の文言でしめくくっているのは、ほぼ前の伊久屋権四郎宛遣証文と同様である。

また『雑書』同年八月二八日条には、赤沢山銅山に新見立がある旨南部屋八十治から書付が出されたので、同

人にその稼行を仰付けられたとある。さきに権四郎の跡八十治の普請となっていた長坂金鋪につき、同じく一一

月一八日条に「鹿角長坂金鋪唯今迄御手山仰付け置かれ候処、此度売山成さるる旨仰出され」云々とあることは

前述の通りで、八十治は赤沢を新たに見立てて後、まもなく長坂を放棄したものと思われる。

〓去沢銅山稼行に乗り出した南部屋八十治は、長崎奉行より前借金一万両をうけ、廻銅定数一カ年一〇〇万斤