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れ、同時に藤沢左内、猿橋喜七郎も同役を命じられた。さらに「御勘定方」安宅定四郎、「御雇御勘定方」福十
儀八は銅山御用懸として勤め方右同断と指示された上で、以上六人のうち「一人宛二番交代仕り、三人宛山元註
居り候様」と申渡されている。一二月、安宅定四郎は阿野兵部左衛門が銅山御用のため江戸登りするに伴い、
御山模様モ存居候間」附登りを仰付けられ、翌年二月江戸の「御留守居見習」山本十太夫は銅山御用懸を命ぜ
られて兵部左衛門の相談相手を勤めることとなった。九月、「銅山御奉行」が役替となり黒沢新六に代わって哥
書茂内が任命され、黒沢新六は「御勘定頭」を仰付けられている。直後、銅山御用懸御目付葛西平左衛門は家老
席へ書付を差出し「銅山御用ノ義ハ御内證御役人ハ兼て惣懸り仰付けられ差置かれ候。然る所今般黒沢新六御勘
定頭仰付けられ候。新六義ハ数年銅山御奉行仰付けられ相勤め申し候故、山方ノ義ハ申すに及ばず内々御金銭入
組みノ筋共ニ委細ニ承知罷有り候ニ付、右ノ通り一同仰付けられ候内、別て銅山御用懸共仰付けられ下され候様
仕り度く存じ奉り候」、そうすれば私が御目付方御用のため勘定所へ出られない場合でも遅滞なく事務処理でき
る、「畢竟銅山ハ公辺御懸合も御座候て御大切ニ存じ奉り候間、愚意ノ趣申し奉り候」と具申し、黒沢新六は銅
山御用懸御勘定頭を命じられた。
幕府の厳しい督促があったものの、尾去沢銅の大坂着銅は遅延を重ねるのみで、寛保二年(一七四二年)又々
老中松平左近将監からの申渡しを受ける始末であった。その趣旨は、尾去沢出銅を長崎御用銅に一カ年一〇〇万
斤宛廻す約定で去る享保一九年に金一万両を長崎奉行から借受けながら年々定数を減じ、去年の申立てでは定め
の通り一〇〇万斤の内七〇万斤は年内に大坂へ着け、三〇万斤は翌三四月迄に大坂着ということであったが実行
していない。役人共不取締りの致方であるから今年より国許の家老の内一人、銅山掛り役人一人を江戸へ呼寄せ