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候」とし、「当今銅不捌に相聞得候間、景気相直り候迄ハ」「一ケ年床役十分一御礼金三千両にて、表向御手山
御内々売山御請負廻銅支配仰付けられ候」ことを明らかにしている。
この時期における幕府の銅政策は、多分に一貫性を欠いたものであった。寛保三年輸出銅を半減し、翌延享元
年に銅座は貿易入用の荒銅のみを買取ることとし、地売銅市場を自由化した。同三年には輸出銅を緩和し、唐船
一五〇万斤の外に五〇万斤を許し阿蘭陀船銅は一一〇万斤に増加した。その先延享元年九月、突然盛岡藩に対し
尾去沢長崎廻銅を三五万斤で打切る旨を通告し、周章した藩の再三の照会にようやく「当年長崎御用銅ハ三拾五
万斤ニて相済み候。来年よりハ七拾万斤宛廻銅致され可く候」と回答している(
『雑書』延享元年
一一月四日条
)。しかし同四年
四月に至り、長崎奉行安部主計頭より「南部銅ノ儀向後長崎御入用ノ趣次第銅座ニて買入」れるべき旨の申渡し
があったので、藩留守居より盛岡銅は七〇万斤との定めなのに御入用次第とはどのように心得ればよいのかと問
うたところ、入用があれば一〇〇万斤でも買上げ入用無ければ一〇万斤にとどまるかも知れないとの曖昧模糊と
した答であったという。当惑した藩では翌年老中酒井雅楽頭に対し、去春より御用銅は入用の都合次第銅座相対
の買入れということになり去年一〇万斤買上のほかは当年まで全く買取りがない、これでは銅山の維持も困難な
ので従来通り長崎会所の直接買入れとしていただきたいと願出たが、これに対しなんの沙汰もなかった。結局延
享四年から、尾去沢銅の買入は皆無の状態で推移した。寛延二年(一七四九)七月、再び銅値の引下げが行われ
諸国出銅一斉に一〇〇斤につき銀一〇匁の値下げとなった。この年尾去沢銅は、銅座から僅か二〇〇斤の買上が
あっただけであった。
寛延三年七月銅座が廃止され、売渡銅は大坂に設けられた長崎御用銅会所へ直納することとなった。この時藩