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もって申達を受けた。その大要は、尾去沢銅山長崎廻銅は近年延着が多く、わけても去る未年には定数の内四万
四、〇〇〇斤廻着したのみで、六八万斤余の廻銅が遅滞している。請負人森田屋六右衛門に問糺したところ、能
代その外海上に滞り囲銅となり或は銀繰り差問え拠無く質入銅にしたものもあり、不調法の段申披きの由もな
いとのことである。去未年森田屋六右衛門の願出通り銅代前月渡しを許し、その節も大坂詰の藩役人から会所へ
奥書印形も差出している。一体いかが致す所存であるか。廻銅滞りのため唐船も出帆できないでいる。ついては
藩役人において請負人不埒の儀急度吟味の上、去年の滞銅分はこの春夏に相違なく廻着させ、猶当申年の定数も
当年中相違なく廻すよう固く申付ける。今後は廻銅の月割積り書を差出すよう、来年の廻銅実数月割書付は当
一月迄に差出すよう心得よ、という厳しい内容であった(
「雑書』宝暦一四
年二月二六日条
。その後の藩の調べによって、廻銅の
延滞のみならず、藩に対する月割御礼金も滞納され、山元の操業資金も枯渇していることが判明した。その追求
を避けた六右衛門は明和二年冬江戸を出奔し行衛を晦ました。
かくて盛岡藩は、度重なる請負人の失態によって面目を失い、幕府に対する信用回復からも根本的な経営改革
に取組まねばならなくなった。これまでの「銅山表向御手山、御内々売山」といった形を捨て、ここに意を決し
名実ともに御手山となすべく藩直営に踏み切ることとなった。森田屋六右衛門について『雑書』明和四年二月一
一日条は「鹿角尾去沢先銅山師森田屋六右衛門儀、去々年冬江戸表ニ於て欠落致し、其後馬喰丁三丁目大坂屋長
石衛門店借宅致居り、公儀御役人方え手寄を以て内々出入し、此御許御銅山差障ニ相成候儀之れ有りニ付、去夏
公義え御届ノ上御捕押え御詮議ノ上籠舎仰付け置かれ候処、此度御下げ成され候ニ付網懸錠付青駄ニて御徒目付
附溜御同心ノ内岩間左市助組四人、六右衛門介抱人詰夫御人足壱人附、今日着す」と書留めている